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HERR*SOMMER-夏目

現代ドイツ作家・詩人の紹介を主に・・・

*ウクライナの女 リーディア ランゲッサー短篇選 拙訳より 

E.ランゲッサー詩 & 短編選

 

「ねえ、あなた、あのヒラメのこと、まだ覚えていらして?..」と私は訊ねてみたが、いいえ、とロベルタは云うのだった。

「でも、忘れるはずないわ。大きなヒラメ焼いたでしょう?..」こう云ったにも拘らず、ロベルタは、覚えていないの、と繰り返すだけであった。けれども、それは終戦直前のころ手に入った最後の配給だったので、ワタシハくおぼえていたのだった。     ***

 ところで、終戦間もないころ、一番仲のよかったロベルタの台所が、広い五角形の広間のような台所だったが、何故、あのように外国人も交えて、見知らぬ女性たちで溢れんばかりであったのか、この頃ようやく理解できたのだが、思えば、ロベルタ家の台所は忙しげな集合所となっていたのだった。  **

 「ああ、そういえば、あの男のことなら覚えているわ、あの兵士のことなら、・・」とロベルタは云った。

「ねえ、あの兵士のことを思いだしたのなら、当然ヒラメのことも覚えているはずよ。」

「いいえ、それが覚えていないの」

「それなら、あの兵士が最後に、私たちを救いだしてくれると軍隊のことを頻りに、捲し立てていたけれど、真っ赤になって憤激していたコルタのことも覚えていないっていうの・・」

「いいえ、それは覚えているわ。本当に可笑しかったね。けれども、あの兵士が話していたのは、リーディアにだったのよ。。リーディアがウクライナの女性だとは一向に、気づかずにね」***

 リーディア !!..そうだ、それはリーディアだったのだ。彼女がまさか、ウクライナ人だとは知らずに、皆、ロベルタ家の台所に出入りしたいと願っていたのであった。そして、その彼女といえば、働き者で頬骨の滑らかな美人で、骨太のリーディアは、疲れを知らぬ手つきで、いつもじゃが芋やリンゴの皮を剥いていたのだ。        ***

「そういえば、あのリーディアにだったわね。」と私は云った。

 「ええ、でも、あの酔っ払いの兵士が自慢話をすればするほど、彼女は益々、そのほうを見られなくなって俯いていたでしょう」

「いいえ、そうじゃなかったわ。」と私は云った。

「目をあげたわ。ほら、丁度あの高射砲の放送が始まった時、わたし、お宅の料理人と一緒にヒラメを裏返したのよ。そうしたら、すぐにそのあとで、あの警報がなったのよ。」

  私はしかし、それ以上はロベルタに何も云わなかった。---それはロベルタがリーディアによくしてあげなかったからではなく、リーディアが急に姿を消したことに腹を立てていたからであった。そしてリーディアといえば、そのころノスタルジアのあまり、一夜を泣き明かしたり、抜け出そうと幾度も試みたりしていたのだが、それはロシア軍がベルリンを占領すると誰しも思っていたからであった。                 ***

   リーディアは学生のころ、物理学を専攻していたのだが、出入りの自由なこの台所では、いつも中心的な女性であった。彼女は然し、一言も口を開かずに決まって、ジャガイモの皮をうすく剥いていたのだが、高射砲の放送が擦れながら聞こえてくると、必ず目をあげるのであった。彼女にはおそらく、大気を通して、彼女にしか分からない、ある確かな何か大切なものを伝えているらしかった。*** 

*リーディアは今は、マリオポールの自宅に戻って棲みついて居るであろうが、先頃、ベルリンのシャルロッテンブルク駅のプラットホームで見かけた。汽車は小旗や緑の花飾りで飾られ、傍らでは、たくさんの女性に交じって合唱をしているのであった。それはなんという大コーラスであったことであろう。目を閉じていると、大きな嵐ではないかと思えるほどだった。

「リーディア!!...わたしは思わず叫び声をあげていた。

「リーディア、ご機嫌よう。これからも、ずっとお幸せに!!..ご無事で、リーディア・」

私は汽車が遠く消え去るまで、蔭からハンカチを握りしめ、汽車の最後尾が消えても、いつまでも耳にはコーラスの響きが残って消えることはなかったのである。    ******

E. Langgasser: Lydia 

 Aus: dem Torso   Gesammelte Werke     Claassen Vlg. 1964      ebd. S,341ff..