「ねえ、ヒラメのこと覚えていらして?..」と訊ねてみたが、いいえと ロベルタは云うのだった。
「忘れるはずないわ。大きなヒラメ焼いたでしょう?..」こう云ったにも拘らず、ロベルタは覚えていないのと繰り返す。けれども、それは終戦直前のころ手に入った最後の配給だったので、私はよく覚えていたのだ。
終戦間もないころ、一番仲のよかったロベルタの台所が、広間のような台所だったが、何故、見知らぬ女性たちで溢れんばかりであったのか、この頃ようやく理解できたのだが、ロベルタ家の台所は忙しげな集合所となっていたのだ。
「そういえば、あの男のことなら覚えているわ、あの兵士のことなら」と ロベルタは云った。
「あの兵士を思いだしたのなら、ヒラメのことも覚えているはずよ」
「いいえ、覚えていないの」
「なら、兵士が最後に救いだしてくれると軍隊のことを捲し立てていたけれど、真っ赤になって憤激していたコルタのことも覚えていないっていうの」
「覚えているわ。可笑しかったわね。でも、兵士が話していたのはリーディアにだったのよ。リーディアがウクライナの女性とは気づかずにね」
リーディア !!..そうだ、リーディアだったのだ。
彼女がウクライナ人だとは知らずに、皆、ロベルタ家の台所に出入りしたいと願っていたのだ。彼女ば働き者で頬骨の滑らかな美人で、骨太のリーディアは疲れを知らぬ手つきで、じゃが芋やリンゴの皮を剥いていたのだ。
「そういえば、リーディアにだったわね」
「でも、あの酔っ払いの兵士が自慢話をすればするほど彼女は益々、俯いていたでしょう」
「そうじゃなかったわ。」
「目をあげたわ。高射砲の放送が始まった時、わたし、お宅の料理人と一緒にヒラメを裏返したのよ。そうしたら、そのあと警報がなったのよ」
私はそれ以上は何も云わなかった。ロベルタがリーディアによくしてあげなかったからではなく、リーディアが姿を消したことに腹を立てていたから。そしてリーディアといえば、ノスタルジアのあまり一夜を泣き明かしたり、抜け出そうと幾度も試みたりしていたのだ。それはロシア軍がベルリンを占領すると誰しも思っていたからであった。
リーディアは学生のころ、物理学を専攻していたが、出入りの自由なこの台所では中心的な女性であった。然し、一言も口を開かずジャガイモの皮を剥いていたのだが、高射砲の放送が聞こえてくると目をあげるのであった。 おそらく、大気を通して彼女にしか分からない、何か大切なものを伝えているらしかった。
リーディアは今は、マリオポールの自宅に戻って棲んいるであろうが、先頃、ベルリンのシャルロッテンブルク駅のプラットホームで見かけた。
汽車は緑の花飾りで飾られ、たくさんの女性に交じって合唱をしているのであった。なんという大コーラスであったことであろう。目を閉じていると嵐かと思えるほどだった。
「リーディア!!..」思わず叫び声をあげていた。
「リーディア、ご機嫌よう。これからも、お幸せに!!..ご無事で、リーディア」
汽車が遠く消えるまで、蔭からハンカチを握りしめ、汽車の最後尾が消えても、耳にはコーラスの響きが残り消えることはなかったのである。
E. Langgasser: Lydia Aus: dem Torso
Gesammelte Werke Claassen Vlg. 1964 ebd. S,341ff..