ゲーテの晩年になった「西東詩集」は、詩的様式が散文に著しく近づいていった。そこには体験内実と表示される意識との間に、<距離>があったからである。故に、そこでは半ば抒情的に教訓が語られるという表現形式が多々見られるのである。言い換えるならば、「西東詩集」にあっては一つとして直接的な感情表現はみられないといっても過言ではない。このように「西東詩集」の詩のほとんどすべては歌われていると同じ程度に語られているのであり、それは無意識的な詩ではあると同時に、意識的な散文ともいえるのである。
そんな一例として、次の詩が挙げられてよい。
本のうちで いちばん 不思議な本: それは 愛の本
わたしは それを心して 読んだ ---:
喜びを 語るページは 少なく 全巻は 悩みだった
別離は 一章を占め 再会は 断章にすぎなかった
苦悶は 各編にわたり 説明は 長く記され
綿々と 尽きることがなかった
おお ニザミよ! だが 竟に 正解は 見つかったのだ
解きがたくも それを解くもの
それは ふたたび逢ひ 愛しあふ ふたり
*** 《愛の書》 より
Wunderlichstes Buch der Bucher
Ist das Buch der Liebe,.......dtv ebd. S.24....