HERR*SOMMER-夏目

現代ドイツ作家・詩人の紹介を主に・・・

*母なる自然: メーリケ解明

 

*1875年のメーリケの死後、彼の才能を理解するひとは、ほんの一部にすぎなかったが、19世紀末になると次第にシュヴァーベン・アレマン地方で評価されはじめ、その後、H.ヴォルフWolfによってドイツリートと して作曲されると広く広まり、 メーリケの評価は今日に至っているのである。 

   

   メーリケ・書簡集 より:---

 母なる自然よ、わが身をいつまでも癒し給わんことを・・ 

*最近、気付いたのですが、普段は厳しい冬も、それは元来、自然の純粋な本質にすぎないということです。広大な白い平原を高みから見、静かな村の背後に突き出た尖塔のような碧いアルプスが幽かに漂う霧の中に浮かぶ雄大な姿を目の当たりに見たとします。すると、そんな時、澄みきった大気中は天より覆われていないものは何一つないので引き締まった感情が伝わってくるでしょうし、また、春になれば祝祭を催したいという気分になるように、気分はおそらく高まってくるというものなのです。

Aus; Morikes Brautbriefen.     

Reclam   ebd.   S.46..Natur  

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* 抒情詩人 : メーリケ .

 

* ゲーテ以降で、その多様性と独創性でメーリケほど抒情詩において抜きんでた詩人は、そう多くは見当たらない。が、彼の生涯は決して耀いていたのではなかった。寧ろ、憂慮に富んだものであった。zB.弟の死、姉の衰弱、別の弟カールの政治活動による拘禁、また、婚約者との絶縁、母の死、更には、彼の健康の衰えなど。usw.                

 *メーリケは1804年、医師の子としてルードヴィッヒスブルクで生まれ、幼年時代は姉たちに囲まれて幸せな暮らしをしていたが、13歳の時、父親が亡くなるとシュトゥットガルトの親戚にあずけられ神学校に通った。彼はその後、牧師の娘、ルイーゼ・ラウと婚約したこともあり、1829年から 33年の4年間に交わされた一連の愛の書簡は純粋なる愛に満ちているが、周囲の理解が得られずに破談に終わっていたのである。

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*メーリケ:書簡集 より

 

 1875年6月4日、シュトゥットガルトで亡くなったメーリケ(享年71歳)は、それより10年前に、すでに詩作は衰退していたが、最も旺盛だったのは1837年から38年にかけて(33歳から34歳)で、38年には150篇の詩を書き一冊に纏(まと)めていた。

死の20年前に出た1855年の短篇に「プラハへの旅路のモーツァルト」Mozart auf der Reise nach Prag があるが、これで頂点に達した感のあるこの作品はドイツで最も美しいといわれる音楽小説Musiknovelleである。

 また他方、長編では「画家ノルテン」Maler Noltenがあり、これは25歳で書きはじめ、28歳で完結をみた告白調の芸術家小説Künstler-Romanで、メーリケは52歳の時この長編に新たに手を加え改作を試みているが、才能の枯渇に悲哀を感じた彼は20年余りという歳月になす術(すべ)はなかっ た。

 

 

 


                             

*「アンティゴネー」  ソフォクレス 

 

ソフォクレスによって書かれ、前441年に上演されたギリシア劇「アンティゴネー」は、攻めよせた敵方の骸(むくろ)を葬(ほうむ)ることを禁ずる掟(おきて)に、敢然として逆らい、死に処せられるオイディプスの娘、アンティゴネーの悲劇だが、そこに出てくるアンティゴネーの有名な言葉がある。それはこんな言葉である:

「憎しみあうためにではなく、

         愛をともにするために、私は

                                  生まれてきたのです。

この人道的、寛容的精神性に富む言葉は、ドイツ語訳ではこんな風になる。

 Nicht  mit-zu-hassen ,

           mit-zu-lieben  bin  ich da !!.   ( 523行 )

 

 因みに、この言葉は、19世紀のドイツの作家、W.ラーベ,Wilhelm  Raabeの長編小説「飢餓牧師」Der Hunger-pastorのLeitwortとして、文頭に引用されており、よく知られた言葉なのである。                                    ***

 

 

*ヘレナとファウストと悪魔メフィストの闖入・ ゲーテ「ファウスト」第二部より

  *第二部・第三幕 ⑵ から

城の中庭でのファウストと絶世の美女ヘレナとの愛の告白の場面(9377~84)

ここでは毬を投げ、毬を受けるように、言葉と意味を交わしながら、心が結ばれてゆく場面     

ヘレナ:   ねえ、どうすれば あのように美しく お話しできるのから。

ファウスト:    それは ごくやさしいこと。つまり 言葉は こころから出すので。そして 恋しい憧れが芽生えたら、ふと顧みて問うのです。

ヘレナ:    楽しみは 誰と共に  享けるのかと・・

 

*そして、この仲睦まじき二人を、例の合唱(Chor)が讃えるのだ。 

(((あのふたりは いつしか身を寄せ合い、立派な玉座の間で 肩に肩を寄せ 膝と膝をつき合わせ、手に手をとり もたれ合い坐していらっしゃるのね。)))

        

* ところが、この幸福な一瞬を俄かに、曇らせるのが云わずと知れた、あの悪魔メィストフェレスの闖入(ちんにゅう)である。 (9491--34行)   

恋の伊呂波の 手習いも 結構。それに戯れつつ 

 色恋の難しい 詮議を たのしく過ごすのもいいが、はたまた 仲睦まじく 暢気 気ままに 色恋に明け暮れるのも よしとするが もはや そんなときでもあるまいに。あの遠来の 鳴り響く 雷の轟きに 気づかぬはずも あるまい。 それ 高らかに鳴り渡る ラッパの響きが 聞こえてくるわ。破滅は遠からず 迫っているのですぞ。激戦の準備は 万端ですかな。絶世の美女に 捧げたツケは 重いのですぞ。いまや 四面楚歌となっては ダイフォスさながら 切り刻まれるが 必定ですからな。

        Goethe  Sämtliche Werke 18-1    Letztes Jahre   1827-32....

              Hanser   Ausgabe   1997..

                    Kommentar.Faust Ⅱ 3 Akt     Metrik  韻律学 

 

*「古代ワルプルギスの夜」: 魔女 エリヒトーの独白:

 

*場面は: ファルザスの古戦場で、辺りは  暗黒である。

 魔女・エリヒトーの独白 :

 ハーイ、あたしはエリヒトー、夜の魔女よ

毎年のことだけど、今宵も 魔女たちの祭りに 参上したわ

やくざな詩人たちが、大げさに悪しく言うほど

 不気味な女では ないのよ

褒めるにしても、貶(けな)すにしても、

詩人というのは  際限を知らないのよ

   あら、見渡せば 谷間はもう、灰色のテントばかり、

     波打っているわ

あの蒼白く 霞んでいる 波のまにまに、

過ぎし日の 不安や恐怖が、夜の幻の中に

   交じりあっているのね 

もう何年、くり返されてきたことかしら そしてまた、  何年、繰り返されて いくのかしら

   そう やすやすと 自分の国は、人手に

   渡したくないものよ

力ずくで掠奪し、力ずくで統治しても、

 長続きするはず ないものなのにね

他の国を奪い取り、支配したがるのは、権力欲と

利己的愛国心と 驕慢のためかしら

そうよ、ここも そういう 大きな戦(いくさ)のあった

古戦場なのよ 暴力と暴力とが 対峙した古戦場なのよ 美しい花や 自由の花環が 

あえなく 引き千切られた ところなのよ

月桂樹の冠が 略奪者の頭を 

 虚しく飾ったところなのよ

こっちの岸辺では、ポンペイウスが 

過去の栄光に 酔っていたかと 思えば、

対岸では シーザーが 運命の秤(はかり)の針を

覗っていたところでも あるのよ

やがて、いくさが 始まったわ けれど、

勝利の女神は どちらに 微笑んだか

  誰も知ってのとおりね  

      

*わたしは世界が明けるのを見た;「仔羊の回帰線」序 より

        

黄金に輝く微笑みのなか 世界が明けるのを見た

その世界は 深い秩序ある映像として鮮明になり 

戯れているように形作られてゆき 平生なら謎に満ち 眼には見えないのに

植物においても 動物においても 人間においても

あまねく清らかなものには 謙虚に 誠実に顕れたのである))))

けれども それは恵み深い本質の意義で おだやかに 

無辜の子のように示されたのだが 自然界は天上の癒しの光の中で 

恩寵により 峻厳に救済されていることを  しめしていたのだ ))

労働のあとの七日目には 自由の日が 律法によって 用意された・・

そして人は敬虔に生長し 初めは孤独だったが 次には 仲間も加わり 

やがて 予感に満ち 人間に絆が 生まれてくると

竟には 精神が浄化され 朝陽に照らされると ともに 手を携え 

まだ 朦朧と霞む世界ではあったが やがて その望まれた人生は

厳しさの中で  高められていくのであった  ......       訳: 夏目 政廣 

           E.ランゲッサー「仔羊の回帰線」 序 より

Aus; E.Langgasser  Gedichte         Der Wendekreis des Lammes

               Ein Hymnus der Erlosung   Claassen Vlg. 1959 ebd. S. 23...

 

                

 

 

*「語り得ないことに関して、人は 沈黙していなければ ならない」:

 

           文学史家、K.ロートマンの著から:

オーストリアはウィーン生まれのヴィトゲンシュタイン1889-1951は、生涯にわたって言語による表現記述の可能性と限界を思考した著名な哲学者だが、<語りうるもの>の領域、zB.自然科学などは、はっきりと語り、<語り得ないもの>の存在と重みを示したことで知られている。 

 ヴィトゲンシュタインは云う。:「言葉は、事実をモデルとして描くことは可能だが、それを解明することは不可能である。」  とはつまり、「さまざまな事実によって決定されている世界では、論理的に空間のなかにある事実こそ世界である。」と、<事実>の重要性を強調して、恣意的な観念構築の近代哲学の、とはつまり、カント以来の観念論、並びに、ヘーゲル観念体系を云うのだが、根本的欠陥を衝いたのであった。そして、彼は次のように云うのである。 即ち、                  「わたしの言葉の限界は、わたしの世界の限界を意味しているのだ。」Die Grenzen meiner Sprache  bedeuten die Grenzen meiner Welt..

それ故、「語り得ないことに関しては、ひとは沈黙していなければならない・」というのである。  Wovon man nicht sprechen kann,  darüber muss man schweigen..    

    Aus: K. Rothmann, Dt.  sprachige Schriftsteller   seit 1945.  Reclam