HERR*SOMMER-夏目

現代ドイツ作家・詩人の紹介を主に・・・

* 「若い二人」Die Beiden : ホフマンスタール

 

 

  「美しき惑ひの年」;Das Jahr der schonen Tauschungen はカロッサ;Carossaの医師を目指して学ぶ学生時代を扱った短篇だが、こんな詩も挿入されており、見事な訳者の訳詩であるが、何年か前に訳したことがあり、SNSで発表し多くの人に読んでもらったこともある親しみある詩である。:     

「詩だよ!.. まだ印刷されてないんだ。 詩人の自筆なんだよ」

フーゴーは手に封書を持っていた。それを激しく振ってみせ、遠くから期待しておれという意を伝えていた。

「デーメル ,Dehmel か ?...」と私は大声で云った。

「いや、デーメルじゃない。・・だが、これは新しい時代の産んだ最美な詩の一つさ・・」

彼が私たちのもとに来るや封書から、早速、取り出した白い紙片をみると、投げやりではあるが、個性豊かな筆跡で次のような詩が書かれていた。そこには 作者の名は書かれていなかったが、表題は「二人」Die Beiden と認められていた。

       「若いふたり」:

ささげ 運びし 杯と

輝き 競ふ 乙女の かんばせ(顔)

あゆみ 軽ろく 爽やかに

縁(へり)から 一滴(ひとしずく)も 零れることなき 

手裁(てさば)き しかと 軽やかに

鞍の上から みやび をのこの 

姿 華やぎ ゆたかなる

駒を 事もなげに 止めいでし 

   さあれ いましも いと軽く

   杯 ささげ とりたるも

   たがいに 難しく 二人には

   手と手は かち合わず

   深紅の 酒は 地に 零れをり

    

因みに、詩人の名はホフマンスタールHofmannsthal で、 彼はシュニッツラーと並び、19世紀オーストリアの世紀末を代表する詩人、劇作家であり、わが国でもよく知られている。

 

* 山と雲と湖との平和 : ゲオルゲより

 

あまたの 色を変じ 湖は

雲上の 絵巻ものを 鮮やかに 映す

いまは もう 妖精は 隠れたが

魔法を用い 薄緑から 青に

深紅から 黄金色に 閑に 融け合い

淡い光が 反射され 鏡となって 煌めき返す:

傍らでは 巨人が 湖面を 凝視し

鋼の 長衣に 項は 翳され  

鉛色に 波打つ湖面を 背にし

蒼白き 光を受け 立っている

左は 昏く 右は 彩に 煌めき

辺りは 憩うている:

おお かくなる 山と雲と湖の 

   聖なる 和平よ ! ・・・

    *** S. George : Der See  

* 大都会 : リリエンクローン 

 

 

 都会の大海原; 目の前を

 慌ただしく すぎゆく人 また 人・・

 一瞥を投げ と もう 過ぎてゆく

 どこからか ピアノの響き 聞こえきて・・ 

 

   虚無の大海原; 目の前に

   滴るしずく 一滴 また 一滴

   あの柩は 誰のもの 一瞥を投げ

   と もう 過ぎてゆく どこからか

   ピアノの響き 聞こえきて・・

 

 都会の大海原; 葬儀の列 眼の前を

 行き交う人 また 人・・

 わが柩にあらず 安堵して 一瞥を投げ

 と もう 過ぎてゆく 

 どこからか ピアノの響き  聞こえきて

 彼に レクイエムを  !!.....・・ 

             *** Li' liencron: 1844-1909.

   リリエンクローンは普仏戦争に出征した経験があり、英雄的な即興詩に長けているドイツ現代詩の先駆け的詩人。

       ***

 刺激に追い立てられている大都会人の耳には、その朗読会に於けるデーメルの朗誦は耳慣れぬものであったかもしれない。然しながら、参会者の何人もこの卓越した人物の呪縛力から抜け出ることはできなかった。新たな伝達様式を得ようとする彼の熱烈で誠実な奮闘を感じないわけにはいかなかった。。そしてデーメルがリリエンクローンや、アルノー・ホルツの詩に次いで、モンベルトの詩句を読み始めるまでは、一切は完璧な静粛に満ちていたのだ。。我々三人の盟友は、この数週間以来このかた、「天地創造」や「灼熱する者」の韻律的な響きに没頭していたのである。

   カロッサ「美しき惑いの年」より

   Carossa; Das Jahr der schonen Tauschungen

* 「祝福」: デーメル 「女と世界」より

 

 ごらん 空が 青くなり

 燕が 早や 飛ぶ 魚のように

 濡れた 白樺のうえ それなのに

 きみは 泣きたいというの ?...

      .........      ......

    きのう きみは 失意のあまり 

  剣に 魂が 貫かれていたね

  きみと同じ名の あの聖女のように 

 でも きょう ぼくは 歓喜のあまり 

 両腕を 高らかに 拡げる

 剣に 魂を貫かれた きみを前に

 すべての聖徒に わが身を 比べながら 

 さあ ぼくのマリアよ 身を 寄せておいで

 そして ともに 耳を 傾けよう

 頭上では ほら 天の軍勢が 歓呼している・・

     ***  Dehmel ;  Benedeiung

                      デーメル 「祝福」

Vgl.:       Sei mir gebenedeit !...= 

   Sei mir gegrusst , die Gebenedeite 聖母マリア

   ***

 俄に 広間は会衆で一杯になった。・・いよいよデーメルが現れた。すると彼は檀の真ん中に進んで、無造作に一礼すると、すぐ朗読を始めた。・・彼は熱情に満ち、屈強であり、また宣教師風でもあり、更には半獣神風で異彩に満ちていた。。。

 しかし今や詩が可視的なものへの関心から拉っしさり、ニーチェの「夜の歌」を朗誦すると、デーメルの声はいよいよ深い内奥から発して天翔った。それは憧憬と恍惚のうちに、歌曲リートに近づいていったのである。。

恐らく、12-13世紀中世の英雄時代の吟遊詩人・トルバドゥール;troubadoursはこういう風に朗読したに違いないのであろう。。。

   *** カロッサ「美しき惑いの年」 より

 

 

  

  

* 鐘の音 : デーメル「女と世界」より

 

そして 日暮れに ほっと一息 したくなったら

鐘の音が なにを 告げているか 

外に出て 耳を 澄ましてごらん

あちこちの 小屋から 立ち上る 煙は

槲のこずえを 温かく 包み込み

さあ お出でと 云っている 

すると やがて 蕾に蔽われた 木の下では

木霊とともに そよぎが 秘めやかに 囁くのだ:

春だ さあ 出てゆくがよい 廣い 草原に・・

父と子が ここかしこ なんの屈託もなく

毬投げして 戯れ遊ぶ 草原へ!... 

   そのとき 頭上を 見上げれば 白樺が

  おりしも 花を鏤めた 楓を相手に 

  燦然と 輝き 薄緑色の 若葉を 戦がせ 

  あかるく 戯れて いるであろう

   * デーメル 「復活祭と降臨節に臨んで」

       Dehmel:  Zwischen Ostern und Pfingsten

        **

シラーの「鐘の歌」を凌駕するようなドイツ詩人は到底、でまいとすれば、いったい何を目当てに粉骨砕身するのか。詩作の真の力の泉は、枯れ尽きてしまったのだ。  新しいものはどれも皆、模倣か痙攣にすぎないとプロメトイスは云った。  そこで私は、それではデーメルはどうだね、と訊いた。彼は黙ったなり頭を振った。その名はまだ、一度も聞いたことがない、というのであった。

    * カロッサ「美しき惑いの年」 

  

* 郷愁 :ヘッセ「ペーター・カーメンツィント」青春彷徨 第七章から 

 

 高き空に  浮かぶ  白雲のごと

 美わしくも 遠きなるかな 汝れ エリーザベトよ !..

   白雲は 万里を さすらひ

 そを 汝れは 見ずとも

 今宵も 闇夜なれば 夢に 見つらん

 

 嗚 輝ける 汝が すがた!...

 白雲の 行方を 恋ふがごと

 憧がれ 慕ふかな われ !....

甘く 汝れを 想ひえがきし  郷愁 なればこそ!..

         ***

  以前から、ボートをこぐ時の靜かな動きに合わせ、私は口ずさむ癖があったのだが、今もひとり低い声で歌っていると、それがいつしか、詩になっているのに気づいた。私はすると、嬉しくなり、チューリッヒでの美しかった湖上のデンクマールに書きとめていたのだった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 

* トルストイの「アンナ・カレーニナ」 第一部 

 

 「幸福な家庭は、みな似通っているが、不幸な家庭は不幸な様相もさまざまである。」

アンナ・カレーニナ」のこの冒頭部は、よく知られた一節だが、この長編の第一部の11には、ハイネのこんな詩の一節も挿入されている。: 

  抑えられない この世の欲情に 打ち勝てたら

  どんなに 救われることか だが

  たとい 叶わぬくとも 歓びは

  ひとしお 残るものなのだ

        *

「だけど、一体、どういうことだね」

オブロンスキーは苦笑した。レーヴィンの心の中で行われていることが彼には分っていた。

「つまり、こういうわけだ。仮にきみが結婚しているとする。きみはもちろん、妻を愛している。ところが、ほかの女に惹かれることだってあるだろう」

「わるいが、ぼくはどうしても、分からぬのだよ。だって、今みたいに腹が満腹しているのに、パン屋の前を通りかかった瞬間、ちょいとひとつ失敬するようなものぢゃないか。ぼくにはそれが分からんな。」

オブロンスキーの目がこのとき、いつもよりきらきらと輝いていた。

「どうしてさ。パンだってきみ、ときには随分といい香りがして、堪らなく手に取ってみたくなることがあるじゃないかね」

    **

      因みに、この詩の一節はヨハン・シュトラウスの有名なオペレッタ「蝙蝠」のなかでも使われている。

 

 Himmlisch ist's ,  wenn ich bezwungen

   Meine irdische  Begier ;

    Aber noch wenn's nicht gelungen,

   Hatt' ich auch  recht hubsch Plaisir !...