HERR*SOMMER-夏目

現代ドイツ作家・詩人の紹介を主に・・・

*マルロー:「王道」より

「いや違う」とぺルケンは云った。「あっちの女だ」

      《サディストかな、この人》とクロードは思った。噂によると、ペルケンはシャム政府の依頼で未帰属部族のもとに派遣されたとか、ビルマ東部のS.高原地方やラオス辺境地方の統合にのりだしたとか、バンコク政府と、ある時は友好的だが、ある時は険悪であるとか、最近では批判も受け付けぬ力への情熱が見受けられるとか、その彼にも衰えが見えてきているとか、色好みになっているとか言われていた。

しかし、船の上では女たちに取り囲まれていたのだ。

《何かがある。だが、サディズムじゃない》   ペルケンはデッキチェアーの背に頭を持たせかけると、執政官の仮面が明るい光の中に顕れ、目のくぼみと鼻の影の明暗を際立たせていた。煙草の煙が立ち上り、濃い闇に消えていった。

                         A. Malraux「王道」より

*クロード: --フランス政府から派遣され、クメール遺跡の発掘を企てる26歳の青年。

ペルケン:--ドイツ人らしき伝説に取り囲まれ、シャム政府の依頼で未帰属部族の統合に乗り出したこともあり、幾多の酋長とも親しく、クロードの計画に心を寄せている。

 

 

 

 

 

 

 

 

*エルフェ(妖精)の歌; メーリケ

夜ふけに 村の夜番が叫んだ--: 11時(エルフェ)だ!..

すると 森で寝ていた小妖精は 早合点

すぐに 共鳴した :-- あたしがエルフェよ!....

誰かが じぶんの名を 呼んだと思ったのだ

はて 鶯か それとも ジルベリットか

 妖精が 眠い目を こすりつつ

  夜道を とぼとぼ 行くと 

 煉瓦塀に ホタルが光っていた...))

「おや あの小窓から洩れてくる 光は なにかしら・ 

     婚礼でも しているのかしら

  ご馳走 食べたり 踊ったり 覗いてみようか

 すると エルフェは石塀に頭こうべ  ゴツンとぶっつけた

 あら いやだ!....ほら みたかい エルフェさん !..

          クスクス クスクス クスクス ・・(((  

 どこからともなく 微苦笑が零こぼれてくる (((...

     訳: :HERR*SOMMER-夏目 

   Aus: Mörike  Gedichte   Elfe ,   Reclam

      * Elfenlied:

 Bei Nacht im Dorf der Wachter rief :  "Elfe !"

Ein ganz kleines Elfchen im Walde schlief ---

                  Wohl um die Elfe ! --

Und meint, es rief ihm aus dem Tal

Bei seinem Namen die Nachtigall,

Oder Silbelit hatt'  ihm gerufen.

Reibt sich der Elf die Augen aus,

Begibt sich vor sein Schnecken-haus,

Und ist als wie ein trunken Mann,

Sein Schlaflein war nicht voll getan,

Und humpelt also tippe tapp

Durchs Haselholz ins Tal hinab,

Schlupft an der Mauer hin so dicht,

Da sitzt der Gluh-wurm , Licht an Licht.

"Was sind das helle Fensterlein ?..

 Da drin wird eine Hochzeit sein :

Die Kleinen sitzen beim Mahle,

Und treiben's in dem Mahle,

Und treiben's in dem Saale ;

Du guck ich wohl ein wenig 'nein !"

--Pfui, stosst den Kopf an harten Stein !

Elfe , gelt, du hast genug ?   Guckuk !   Guckuk !   

【脚韻】; rief- schlief,  aus-Schneckenhaus, tapp-hinab,

  dicht-Licht, Fensterlein- sein, Mahle- Saale,    

  Nein-Stein,    usw.  Vgl. :  Tal- Nachtigall,

Mann- getan,  genug- Guckuk,

       Erste Ubersetzung ; 2004.10.7. Ubersetzte von; M. Natsume

 

*「シュレミールの不思議な物語」から

ドイツ人にもなれきれず、故郷フランスも異国と感じていた詩人の話。彼はある時、新聞を手にし コッツェブーを隊長とする学術探検隊が近々、北極をめざし組織されたというニュースを目にする。すると、コッツェブーの斡旋で、かねてからの願望が思いもかけず実現する。

時は1815年の6月。南太平洋、及び、世界全般におよぶ調査探検隊の随行科学者に任命され、ブラジルやチリ、カムチャッカやマニラ、喜望峰、ロンドンと廻り、ロマンチックで異国への憧憬を満たしてくれる三年間を過ごす。これは彼の生涯でもっとも、豊穣な時期であり、これによって精神は種々なイメージと素材の宝に満たされ文筆活動の基盤となっていく。 

 この髪を垂らし上品な顔立ちの長身な詩人、シャミッソー詩集は50歳の坂を超えた1831年に、ようやく上梓されたが代表的な詩篇は「女の愛と生涯」Frauen-Liebe und Lebenで、他方、小説では「ベーター・シュレミールの不思議な物語」Peter Schlemihls wundersame Geschichteで、この作品は、友人のフーケから、「旅で、すべてをなくしてしまったのではなかろう、影までも!?」と水を向けられたことが機縁となり執筆された男の奇譚なのである。それに加え、別の機会に、ラ・フォンテーヌの書物を捲(めく)っていて、こんな場面に遭遇したことも動機となっている。つまり、愛想のよい男が、或る席上で云われると何でもポケットから取り出して見せたのである。

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* 鴎外: 「青年」より

「言われたことぐらい、小説で書いている ・・」

「批評家は 先生のものは真の告白だ。敬服に値いすると。アウグスティヌスやルソーRousseauのようだという。

 「そうかね、有難い。批評など読まないが、アウグスティヌスは 若い時に乱行して悔悛してキリスト教信仰に入ったという。その態度を真から改め、信者となり 大教父になった ・・」

    「また、ルソーは外の女に子ができると 孤児院に入れてしまった。それを懺悔した。それに比べれば、ぼくの書いたのは だらしない。なのに、あれが偉い?  」              「ええ、こころから自省していますもの   **

Vgl/ アウグスティヌスの「懺悔録」や  ルソーの「告白」は よく知られている。 

*ジッド「贋金つかい」: -より

  劇文学で、ラシーヌの父と子のやり取りほど 感心させられるものはない と作家エドゥアールは云った。

    いいかね。芸術は 要するに、普遍的なものなのだよ。・つまり、個別を書きながら 普遍を表現している。   ちょっと 喫煙 よろしいかな。

「どうぞ、遠慮なさらず・・」ソフロニスカは云った。

 ところで、今「贋金つかい」という小説の構想を練っている。その小説は 人間性に根ざし、虚構にも富むといった さしづめ、  モリエールで云えば「タルチュフ」ですかな。    「それで、主題は何かしら」

そんなものは とエドゥアールは云った。

      ぼくの小説には主題はない。こういってもいい。つまり、主題は 決して 一つではない。・・思えば、自然主義派の欠陥は人生の断片を いつも時間の縦軸に沿って切りとった。・  けれども、ぼくの小説には横軸も差し込み、何もかも 盛り込みたいのです、わが身に起こったことは何もかも、細大漏らさず、見るもの聞くもの 知っていること、他人や自身の生活から教えられるものの全てを >>

それ 小説といえますかしら・・」ソフロニスカ夫人は皮肉を込めて言った。脇にいたローラは苦笑した。

    すると エドゥアールは肩を竦め、ぼくの目論見は多面的に様式化し表現することですから。

「それでは、うんざりね、読み手は・・」とローラ。

そんなことはない、断じて。。。

「ええ、風変わりで 面白いかも・・」とソフロニスカ夫人。

「でも、インテリは登場させてはいけませんことよ。お分かりになって。ともうしますのも、読者は退いてしまいますからね・・」    

 Gide:  1869-1951         Les Faux-Monnayeurs.   1945: ゲーテ賞 

        *この「贋金つかい」は唯一のロマーンで、他には、一人称の語り手による作品《レシ》と呼ばれる「背徳者」や「狭き門」、「田園交響楽」などがある。

      ***    )))     ++

ところで、フランスの作家ジッドの「贋金づかい」はこんな小説である。:
 主人公は、自分の才能や人生に不満を持ち、友人のバーナールとともに贋金を使って世界を旅する。しかし、旅先で出会った人々や出来事によって、オリヴィエは自分の価値観や道徳観が揺さぶられる。  ジッドのこの作品は自伝的要素も含んでおり、彼の思想や感情の変遷を垣間見ることもできる。

 まずイタリアに向かったオリヴィエは 美しい女性エドワルダに恋をする。しかし、彼女はオリヴィエの贋金の秘密を知って軽蔑。オリヴィエは失意のうちにアフリカに渡り そこで原始的な生活に触れ欲望や本能から解放される。

  一方、バーナールはロンドンに行き、そこで有名な作家と出会う。プロティノスはバーナールの才能を認め助けてくれるが、バーナールはプロティノスの作品を盗作しスキャンダルに巻き込まれる。オリヴィエとバーナールは最後にパリで再会するが、かつての友情を取り戻すことができない。>>**

 この小説でジッドは自由に生きることの意味や価値を問いかけ、同時に 自由に生きることの危険性や代償も示す。オリヴィエとバーナールは、自分たちの選択によって幸せにも不幸にもなり、その結果に対して責任を負わなければならない。

 ジッドは、自身の経験や思想を反映させ、読者にも自身の生き方を考えさせる作品を書いたのである。

「贋金づかい」以外では、詩、戯曲、評論、日記、紀行文なども書き、代表的な作品は以下のようなものがある。--:

 『地の糧』(1897年): 北アフリカで体験した少年愛や原始的な生活を描く。

詩的小説。: 「背徳者』1902年:キリスト教的な道徳から解放され生へと目覚める。
- 『狭き門』(1909年):神秘主義に傾倒するアランと その恋人の悲劇的な愛。
- 『法王庁の抜け穴』(1914年):ローマ法王フリーメイソンを風刺したソチ(茶番劇)で、動機のない殺人を遂行する。
- 『田園交響楽』(1919年): ジッドが第一次世界大戦中に書いたレシ(物語)で、音楽家とその友人たちの恋愛模様
-- *1947年ノーベル文学賞

 

 




 

 

 

 

 

*古都奇譚:- 古都に眠る魂の物語: ベルゲングリューンより

W.ベルゲングリューン短篇「古都奇譚」 冒頭部 より: 

さあ、みなさま、わたしの傍らにおかけください。

ボトルはテーブルに用意できております。秋の陽はすでに沈み夕暮れて、外では鴉が鳴きさけび木枯らしも吹き荒(すさ)んでおります。

 ところで、地下に眠る哀しげな魂の呻き声はお耳にはいりは致しませぬか。わたしはこれから、いくつかお話ししたいと存じ上げているところで御座います。北は高地の或る古都の物語を。また、東は海沿いのこれも或る古都の物語を。とは申せ、これからお話し致しますのはそれら古都の物語ではございませぬ。実は、そこに棲んでおりました死者の物語なのでございます。

ところで、古代の都市と申しますのは、すべからくが遺跡の埋蔵地なので御座います。ですから、そこに眠る遥かかなたの埋蔵物は矢のような速さで高みへと飛翔していく炯眼(けいがん)な若者の前にあっては、ヴェールの取り除かれるのを 今か今かと首を長くして待ち望んでいることでありましょう。そうして、地下に眠る死者は数え切れぬほどに違い御座いませぬ。

  古代の都市も嘗(かつ)ては、棲みうる限りの人々で賑(にぎ)わっていたに違いないのです。ですが、それにしましても、嘗てその地に棲みついておりました人々に比べ、今現在、同じ地に棲んでいます人々とは、一体、どんな人々なのでありましょう。いま、それぞれがそれぞれの家に暮らし、また街に出て通りを歩いております人の数は、さう多いとは申せませぬ。寧(むし)ろ、すでに灰色の教会内や円天井の地下室で眠りについております人々の数こそ多いと申せるので御座います。そして、それらはあの鑿(のみ)で彫られた重い墓石の下や墓地に繁る芝生の下や、また、教会の広場の舗道の下などに眠っているので御座います。

  嗚呼、生命あるものは、今まさに現在のこの僅(わず)かな一瞬を生きているにすぎませぬ。それに比べ、死者の持ちます時間ははるかに悠久(ゆうきゅう)であり 不変であり、相も変らぬ永続的なものなので御座います。すなわち、死者にとりましては今現在は昨日や明日となんら変わるところなく一年の区切りとて、まるで無縁なので御座います。彼らはつまり、遥かな永遠の中にこそ棲みついているので御座います。  

 さて、これから語ろうと存じます町には、ひとつの奇妙な言ひ伝へがあるので御座います。この地に遙か以前から棲みついておりました民は、古来より古都リーヴァールの生い立ちやドームベルゲについてと同様に、大女リンダに関しましても伝え残しているのでございます。つまり、この巨人女・リンダは恋人のため、墓石としてそれは大きな石灰岩石を築いたというのでございます。それ故、墓石は、この町の始まりからあったというので御座います。   

  この半ば朽ち果て、一面、苔で覆(おお)われた暗いリーヴァールの墓石にはこんな文字が辛うじて読み取れるので御座います。

    パルヴァ・ドームス、 マグナム・クイエス  

           棲家は小さくとも、 安らぎは大きい。 

このように、葬られています死者は、このリーヴァールに御座います教会や墓地には、それは多いので御座います。とは申せ、リーヴァールはもとより、暗く沈んだ町ではございませぬ。そして、これから語ります物語も固より、沈んだ暗い話ではないのでございます。と申しますのも、それぞれの死にも 必ずや <笑い>があるからなので御座います。))) **      Aus: Der Tod von Reval    , W. Bergegruen

 Kuriose Geschichten aus einer alten Stadt    dtv.     Vlg.. 序章 死者の町 より

        Ubersetzung von : Masahiro Natsume  .  HRTT*SOMMER-夏目

高須氏の書より    

     

 

 

 

*「故郷の博物館」:レンツ: より

 年代記風に書かれた長編「故郷の博物館」Heimart-Museum:

  これは追放された農民を例に、故郷ハイマートという概念の問題提起をしている。:即ち、 叔父から小さな故郷の博物館を受け継いだロガーラは これをナチスから守り、幸運にも在庫品の一部をも護った。

 だが、ホルシュタインで買い求めた故郷博物館は偏狭愛国主義者から護るため放火してしまう。すると年老いた絨毯づくりの親方は悟ったのである。:

 つまり、失われた故郷は少年時代と同様、取り戻すことはできなく追憶でのみ生き続けているのだ、と。

火傷を負ったロガーラが故郷の博物館の廃絶を、ひとりの訪問者に委ね、その経緯は第一次大戦から現在に至る彼の生涯の一パノラマとして描かれた。

こうして15日間にわたるエピソードのなかで心象風景を描いてみせたのだが、第13章の大逃走の描写はさておき、諧謔的ユーモアに富むアネクドーテ・逸話として語られたのである。

  レンツの長短編のテーマは一貫して、裏切・迫害・逃走・抵抗、そして挫折であった。 そこでレンツが問題としているのは暴力行使ではなく、試練や苦難の時である。 

 Siegfried Lenz; 1926年生まれ。

  学徒動員により第二次大戦下、前線に送られた。所謂、ロスト・ジェネレーション、失われた世代である。  また、イギリスで捕虜となった経験がある。

     ***   )))  *

 

* ムシュクの「バイユーン; 同盟団」:

    「バイユーン、或いは、同盟団」:ムシュク  

        この長編はムシュク第五作目で、こんな内容である。:                                                       或る長老の作家 リュッターは七人のエキスパート代表団と 3週間の予定で中国に旅立つ。                                                                                                                                       さて2週間後、代表団のリーダーのS.は激高して 皆から嫌われ毒殺されてしまう。だが、この暴君的な権威者の死に 悲しむ者はなく、 ばかりか、各人に容疑がかけられると、個々の人間性を暴露してしまう。                  

 この作品は心理学者によって、いくつものエピソードを回顧しつつ 語られる手法で 書かれ、 その中のエピソードにかかわるテーマやモティーフは 短編物語でも、その核として使われているのである。  例えば、恋物語」や「遠い知人」など。 

Liebes-Geschichten 72.    *Entfernte Bekannte 76. .                                                        A. Muschg;  Aus;  K. Rothmann                         Die deutsche -sprachige Schriftstellrt seit 1945.        ebd. S.286ff...  

***   ))) *

 

*御復活祭前の第五旬節の日曜日に: ランゲッサーの詩 より

   Sonntag Quinqua-gesima :

人は 同朋(はらから) ともに生き 傷(いた)みも情熱も分かちあひ

さながら 灼熱の地獄のなか 泪して 熱く たゆまず 

 こころを ひとつにと願ふ

されど 悲しきかな!.. 

鷲のように飛翔しても 憧憬は 世の園にとどまり・・

 神から離れ 流浪し留まりし ところ

 おお なんと無慈悲なこと !.

.みずからを 憎まねばならぬとは

  主は おはします されど 遠く遙かに・・

 いつの日か  罪に気づき 悔悛するまではと ))) --

* E. ランゲッサー 「仔羊の回帰線」 拙訳より

 E. Langgasser: Gedichte  ebd. S.44f.. Claassen Vlg. 1959...

 

 

 

 



 

 

*御復活前の七旬節の日曜日に:ランゲッサー

人類は ふかきこころで 待ち望む:                                                                                   石からさえ 血のにじむ 孤独の悲しみから                                                            肉体は 樹木や動物にも 朋友と ならんことを望み                     溢るる 愁ひの呪縛から 解き放たれたきと )))                     おお 愁ひに満ちた 苦悩よ !..                            清水や棕櫚の樹や 繁みに向ひ                                                                                         愛のエクスタシーのなかで腕を拡げ 魅力ある生き物として                                            原罪の苦しみから 自然の香を味わふのだ・・  )))                                        されど エデンの園て 呪ひから 枝枝の生長は萎え                                                   繁茂も叶わず 樹液が巡り 発芽しても 実はならず                                                            夕闇せまる暗闇に 主は姿も見せず                                                          生きる術(すべ) ありや なしやと  )) ) **

Aus: E. Langgasser : Gedicht:  Sonntag Septua-gesima (Ostern)                                    In; Der Wendekreis des Lammes  仔羊の回帰線より                                                        Claassen Vlg. 1959   ebd. S.44..

    )))   ***